太平二丁目の沿革
=町名の由来=

 明治2年町制の際、新しい町名として、生まれたもので、新政を祝い天下泰平の世が続くことを願い太平町と名づけたといわれている。もう一説には1丁目の法恩寺が太田道灌とゆかりがあり、山号を平河山というところから、太田道灌の「太」平河山の「平ら」をとって太平町と称したとか。

=本明寺=

 同寺は二丁目七番地に所在す、浄土宗大谷派に属し阿弥陀如来が本尊なり毎月講師を招じ法話会を催す。当寺は、大震災前は柳島梅森町に有しが戦後、当初に移転す。住職は本田隆見師。

=法恩寺=

 はじめ、江戸、平河の地にあった、小庵にすぎなかったが、長禄2年(1458)太田道灌江戸鎮護のため、本城の丑寅の当り、一宇を建立して、京都本国寺の日住上人を迎え開山とし、寺号を、本住院と称した。後ち道灌の嫡子源子源六郎資康、北条早雲と兵を交え、之に戦死す。その子資高、江戸城主となり、後ち、大永4年(1524)父資康の十三回忌に際し、父恩に報ずべく、新たに、七堂迦藍を造営し、寺号を父資康入道して、法恩斉と称せるに因み平川山法恩寺と改めた。家康の江戸入府後慶長11年(1606)江戸城本丸造営のため、神田柳原に移り、さらに谷中に移転し元禄に入り、太田道灌は文明18年(1486)主君、上杉定正によって、相模、糟屋で謀殺されている。この法恩時にも墓碑がある。

=法恩寺橋=

 大横川に架する橋で大正12年震災前は長さ7間幅3間、清水町(現石原四丁目)と太平1丁目を連絡す。橋東に法恩寺があるので名づけたものであろう。昭和4年8月鉄筋コンクリート橋となり幅6間、現在のとおり。創めは万治3年(1660)に本所築地奉行、徳山五兵重政、と山崎四郎左衛門重政の架した橋。

=錦糸小学校=

 大正7年6月1日、太平町一丁目五〇番地に創立。太平尋常小学校と称す。同12年9月大震火災に焼失、仮校舎にて授業開始、その後、昭和4年11月19日、太平町二丁目1番地に復興建築(現校舎)に移転落成、翌20日現錦糸小学校と改称す。同6年、区画整理並みに町名変更後錦糸1丁目となる。尚、太平町二丁目一番地について、補足説明を加える、この番地は、当時太平町三丁目至二四九番地至二九二番地内に旧陸軍馬糧廠跡地の広場であったが、換地所分で、現校舎附近を1番地と表示した。

=錦糸町駅の開設=

 明治27年(1894)初めて、本区に鉄道が敷設された。当所、本所停車場(現錦糸町駅)当時総武線の始発駅として大いに栄えた。明治36年(1903)両国橋停車場(現両国駅)まで延長。そのころの本所駅は現在の貨物取扱所付近。その後、しばらくして錦糸町駅と改称す。昭和7年に入り、高架線が開通、後ち、電化区間は延長され、千葉まで電化されたのは同10年、7月のことである。昭和6年3月1日の東京市告示に従い区画整理並に町名変更に依り旧梅林町自一番地至三番地、自十二番地至二十二番地、自三十三番地至三十八番地を合して、太平町二丁目となる。同20年3月10日戦災により悉く焼土と化し鳥有に帰す。終戦復旧、住民の旺盛なる精神に基き焼土より立上り町の再建を図るまもなく太平町二丁目防犯分会を組織、輪違分会長外役員に依り防犯、防火衛生、祭典其の他一切の会務が行われた。同27年7月1日の世帯調査によれば戸数274戸、人口男760人、女604人同30年10月10日国勢調査に依れば戸数324戸人口男940人、女715人。同28年4月の改選に依り太平町二丁目町会が復活した。

=町会功労者=

 町会長、故輪違鋼造、故石井幸次、故江川鉄次郎、故澤田二郎、故田村久夫、船戸久兵衛、副会長、故本多与一、故横山十吉、故石和田厳、故南雲正敏、江原律、故石田卯三郎、中台作次郎、菊地誠二、中村恒男
 昭和42年7月住居表示法施行に依り太平二丁目となる。同45年9月30日(住民基本台帳)に依れば世帯数、545世帯、人口男826人、女709人、同54年6月30日(住民基本台帳)に依れば世帯数545世帯、人口男726人、女616人で有る、現在。
(1)(昭和31年発刊、同46年発刊の町会員名簿より参考に誌す。) 
   追記 なお平成16年3月1日現在、世帯数841世帯、人口男728人、女624人、総数    1352人

=町の縁起=

 太平町は区の南にあり、明治2年(1869)町制の際、太平町は一丁目、二丁目だけであった。その地域は錦糸町駅の北側から大横川沿いに春日通りまでのびていた。のち昭和6年に一〜四丁目と東西にひろがり、同42年の住居表示変更後の現在の同じ地域になった。町名成立時の太平町2丁目は俗に江戸期の南割下水錦糸掘りといい北本所代地町、四ノ橋通り小梅代地町と中之郷代地町、深川元町代地町と各一部が合併(現在の錦糸一丁目の一部、二、三丁目全域、太平三丁目南側全域、北側一部)明治11年に本所区に所属、同24年には柳島梅森町(現太平二、三丁目北側、横川二、三丁目春日通りまで)ができた。柳島梅森町は、小梅代地町と柳島村字森耕地の併合地で「梅」と「森」を合せ、一つの町名としたといわれている、柳島梅森町(現北側)と現南側と併合し現在の太平二丁目となる。

                               故江川鉄次郎氏の資料参考